優しい声に「さん」と自身の名前を呼ばれて振り返る。普段から変わらぬように優しい笑顔をした人に「はい」返事を返せば、目の前の彼は、すい、と右手を差し出した。無言のそれは、何かを寄越せとも、お手をどうぞ、というようにも見えたけれど、生憎と今の自身にはそのどちらにも思い当たるものがない。はて、と首を傾げたなら、彼はあたかもそれが当たり前であるかのように不可解な言葉を口にした。


「オテ」
「おて…?」


おうむ返しに呟いたなら、彼は差し出した手を少し揺らして、再度同じ言葉を吐く。


「お手」
「て、いや、しませんから!」


 ようやく言葉の意味を理解して、首を振る。あまりにも当たり前のことかのように言うものだから、全く気づけなかった。いつもの、彼のおちゃめだろうと笑ったなら、手を差し出す人は


「しないの?」


 悲しそうにも見える表情でそう言った。その顔になんだか悪いことをしているかのような気持ちになる。が、自身が悪いわけがないのは明白だった。


「しませんってば」


 苦笑を返せば、相馬さんは漸く差し出したままの手を下ろした。「そう…」ふう、と至極残念そうにため息を吐かれて、自身は何も悪くないはずだというのに良心が痛む。それを振り切るように、首を左右に振ったなら、彼はぽつり、呟いた。


「せっかくあげようと思ったのにな」


 いつの間にか、彼の手の中には、紙袋。よく見ればそこには見覚えのあるようなロゴが印刷されている。


「それ…!」
「北菓桜のシュークリーム」


 さん好きだって言ってたから、と相馬さんは、心なしか輝いて見えるその袋を休憩室のテーブルに置いた。
 『北菓桜のシュークリーム』とは、北菓桜の月曜日限定で100個のみ販売される超人気シュークリームである。数が少ない上に、週一販売のためなかなかお目にかかれない。それが今、目の前にあった。
 好きだなんて、彼に言ったことがあったかどうかなどという疑問は、今はいい。そもそも彼相手にそんなことを考えるだけ時間の無駄だろうという気さえする。
 輝かしいロゴを見つめていれば 「さん、欲しい?」 問いかけられて、勢いよく彼の顔を見た。そこにあるのは普段から変わらぬ優しい笑顔。すっと差し出されたのは紙袋…


「お手」
「!?」


 ではなく、彼の右手だった。
 なるほどそれで、お手、だったのか。いや、たしかに北菓桜のシュークリームは是非にもいただきたい。一度友人からもらった一口は、忘れられないほどおいしかった。だけど、私は犬ではないし、ましてや彼のペットではない。まさか、お手、なんて言われるがままにできるわけが無い。


「し、しま、しませ…」
、手が出てんぞ」
「!!」


 あわてて差し出しかけていた手を引く。右手は欲望に正直だった。佐藤さんが声をかけてくれなかったら、危うく彼の意図通りに、お手をしてしまうところだ。


「つーか、人増えてきたからそろそろ入れよ、オマエ」
「わかった。それじゃあさん、それ上げるよ」


 それ、と彼が指差したのは、眩しい眩しい北菓桜の紙袋。
 まさか、と思ったけれど、何処からどう見てみても、彼の長い指が指し示しているのは、北菓桜のロゴが入ったその紙袋だ。


「え…でも…」
「やだなぁ、本当にお手なんかさせるわけ無いでしょ」


 言葉にならなかった言葉も、意図を汲み取って彼は笑う。


「からかったお詫びも込めて、よかったら食べてね」


 常から変わらないなんとも柔らかい笑顔で、この場から去っていた。心なしか、相馬さんも光って見える。神は、神はこんなところにいたのか…!
 神様に感謝しつつ、其の神々しい紙袋に触れる。ドキドキ高鳴る胸を静めながらそっと袋を開いて、中身を取り出せば、其れに伴って、ひらり、とメモ用紙が落ちた。
 何だろうか、と拾ってみたならそこには文字が書いてある。


「今日は、何月、なんに、ち…?」


 読み上げる間に、思い至ったそれに、手の中のシュークリームを見る。よく見れば、それは、北菓桜のシュークリームでは無い。ビニール袋に包まれたそれには、見たことのあるマーク。


「コンビニのシュークリームだし!」


 まんまと、彼のエイプリルフールにはまってしまった、と落ち込めば、背後からは大きな笑い声。貴重な相馬さんの爆笑姿も、この場合は憎憎しい以外の何でもなかった。