錆びたペダルが、キィ、キィとやる気の無い音を出している。 トロトロ走る自転車は、歩く人のスピードと、そう変る速さでじゃない。むしろ、早歩きの人にならば抜かれてしまうかもしれない速さだった。 自転車のカゴの中、斜めを向いているカバンを見る。正確には、そのカバンにくっついている、クマのヌイグルミを、だ。 ぐるぐる巻きのミサンガに、余裕なんてものはない。普段ご機嫌に揺れていたはずのクマタロンは、カバンときっちりくっついて動かなくなっていた。 二度も脱走を果たし、しかもその二度目なんかは大捜索までもを余儀なくされたのだ。次こそは彼を脱走前に食い止める所存である。三度目の正直だった。 挨拶「よー、花道」 聞き覚えのある声が、聞き覚えのある名前を呼ぶ。ふと顔を上げたなら、少し前では花道くんと、彼に声を掛けた大楠くんが、朝の挨拶たるものを行っていた。 自転車のペダルをグイっと踏む。 「む?」 「おー、ちゃん」 「おはよー」 自転車の音に気付いたのか、二人は声を掛ける前に振り返った。大楠くんが、朝から爽やかににこやかに笑う。 キッと自転車のブレーキをかける。自転車から降りて、歩く二人に並んだ。 「今日はみんなは?」 「いや、いっつも一緒にいるわけじゃねーし」 大楠くんの言葉に、それもそうかと笑う。 彼が現れる時は、大抵チュウくんと高宮くんが一緒だったものだから、なんとなく違和感があって聞いたけど、三人一緒に住んでるわけもないんだから、登校まで一緒じゃなくて当たり前だった。 自転車を押しながら、現国の提出物が云々、英語の課題なんてこっちのクラスでは云々と学生らしい会話に花を咲かせる。 花道くんが何か可笑しいことを言って、あはは、と笑ったのと同時に、視線を向うのほうへやったなら、今となっては見慣れたといっても過言ではないだろう人が、見えた。 「おお、リョーちん!」 「おー、花道」 同じように気付いたらしい花道くんが声をかけると、振り返った先輩は、立ち止まってよっと手を挙げる。 「お前、朝から来てんだなー」 笑顔でそう言う人のピアスが朝の光を反射してキラリと光った。眩しくて目を細める。 朝からついてるなぁ、なんて思ってしまうのも、しかたがない。どうしたって、彼はカッコイイのだから。それでなくても、仲の良さそうな会話に口角が上がった。 「あれ?」 ふ、と、先輩の視線が、カゴに斜めに刺さるカバンに向いた。それから直ぐに、こちらを向く。 合った目に、自然と背筋が伸びた。 「きみ…」 「あ、おはようございます。と、その節はありがとうございました。」 どうやら、クマタロンに気付いたらしい先輩に、自転車を支えたまま、精一杯出きる限りに頭を下げる。 何で緊張してるのかは、私の知るところではない。ご存知なのはきっと神様だけだ。チロッと視線を上げれば、先輩は慌てたように両手を振った。 「あ、いや、そんな畏まらなくても…」 たしかに、あんまり腰が低くても先輩に気まずい思いをさせるだけだろうと頭を上げる。「まだ使ってたんだね」と、主語の無いそれは、ミサンガのことだろう。花道くんに話す口調とは、少し違う、やわらかな口調だった。 「はい。代わりも無いし、気に入っちゃったので」 嘘は言っていない。家に代わりになるものは置いてないし、唯のチェーンよりもこっちのほうが可愛くて、気に入ったのも本当だ。ただ、先輩に貰って嬉しかったからという、一番の理由は言っていないだけ。 「なに、さん、知り合いなの?」 「うん、コレ、落とした時に拾ってもらったんです」 花道くんの質問に、コレ、とカバンにくっつくクマタロンを示すと、花道くんと大楠くんは覗き込むようにクマタロンを見て、ほほう、と同じように相槌を打った。 「あと、壊れたチェーンのかわりにって、このミサンガも」 くるくると巻いてあるミサンガも示して言ったなら、二人はにやーと笑って、先輩へと向き直る。 二人して「やさしい」だ「親切」だ「男前」だと口にしてはにまにま笑う。人に親切にしたことが、どうしてからかうネタになってしまうのか、男の人というのは少々摩訶不思議だったけれど、ちょっと照れてる先輩は、なんだか、可愛い。 ほくほくと、そのやりとりを見て入れば、「「あ!」」先輩と花道くんの声がステレオして、何ごとかと驚く。 彼らの視線の先に、"アヤちゃん"と"ハル子さん"がいるというのを確認するが早いか、二人は既に駆け出していた。置いてけぼりを食らった私と大楠君は顔を見合わせるしかない。 なんだか、ちょっと似てるなぁと笑ってしまう。二人ともが、とても一途な人だった。 …幸せに、なってほしいなぁと、思う。あれだけ、一途に思っているのだから。 でもあたしだって幸せになりたい。そこに嘘はつけない。 バランスが悪い気がして、カゴの中のカバンをぐい、と押す。ぐるぐる巻いたミサンガに、クマタロンの揺れる余地はなかった。 二度の脱走から見事生還したクマタロン。一度目の脱走は先輩に保護され、二度目の脱走は先輩の好きな人に、保護された。二人とも、別にほっておいてもよかったはずだ。見ず知らずの人間が落としたものを拾ったところで、何の利益があるだろう。でも、二人は、わざわざ拾ってくれた、長い時間をかけて一緒に探してくれた、それをして得することなんて勿論無いというのに。 先輩も、彩子先輩も、似ているんだな、と、思う。とてもやさしくて、とてもカッコイイ人たち。 嫌いになんてなれるわけがない。不幸を、願えるはずがない。 「幸せに、なってほしいけど、私は不幸になりたくないな…」 ぽつんとこぼした独り言に、大楠くんの明るい声が返る。 「みんなで幸せになりゃいいじゃん」 彼は、きょとんと瞬きをして、言い切った。 それが出きるというのなら、そもそもそんなことは言わないし、考えだってしなかった。 「 無茶言うね」 「そっか? できねーと思ったら出きることもできねーっつって花道も言ってたぜ?」 大楠くんの意見じゃ無いのか。でも、それは、たしかに、そうかもしれない。花道クンは、まさしく有言実行の凄い人だ。 でも今回、私の場合はどうしたって、無理だろう。 先輩が彩子先輩にフラれでもしないかぎり、私の幸せはこない。 だからって、先輩がフラれるなら、それは先輩が幸せじゃなくなる。 「難しいねぇ…」 クマタロンの鼻をぐいぐいと弄りながら、先日相談した友人がくれた言葉と、全く同じそれをつぶやいた。 |