コツコツ、カーテンの向こうから音がする。自室の窓がノックされたのだと直ぐにわかったのは、時たまこうやって呼びに来る幼馴染がいるからだ。そして、その幼馴染以外に、こんな呼び出し方をする人間なんていうのは勿論いない。
 カーテンを開けて一番最初に見えるのは、小学生の夏休みには朝顔の蔓が巻きついていただろう木の棒。根元へとたどれば、そこには想像した通りの笑顔がある。


「月、見にいかない?」


 隣の家の窓から手に持つ月見団子を見せて、既に準備万端であるらしい彼女はそう言った。






 小さく鼻歌を口ずさみながら、彼女は少し前を行く。ふらふらと覚束ない足取りは、酔っ払っているわけではない。どうやら、道路の白い部分だけしか歩いてはいけないという縛りを設けているようだった。


「月なんか、家の前でも見れんじゃん」


 溜息混じりに零したなら、それを拾った彼女はぴたりと立ち止まり、振り返る。


「日本人ならもっと趣を大事にしないと。コンクリの上じゃ、お月さまも可哀想でしょ?」


 にぃっと歯を見せて笑うと、前に向き直る。跳ねるように、次の白い部分へと移動した彼女は二、三歩、進んで立ち止まった。


「なに?」
「いや…」
「…? ああ…」


 立ち止まったまま動かない人の視線は、彼女自身の足元付近をうろついていて、同じようにくるりと視線を這わせたなら、次に辿るべき場所が見当たらないのだということがわかる。


「戻る?」


 動かない人にそう言えば、振り返った彼女は少し不機嫌な様子で「いい」とだけ言うと、白い部分から降りた。その不機嫌は、歩く場所がなくなったからというわけではない。彼女が何かを言う前に、自身がそれを提案したのが気に食わなかったのだろう。彼女の中にあった戻るという選択肢は、たぶん第一候補で、だけどそれを言い当てられたことによってなくなった。そうなるとわかっていて、敢えて口にしたのだ。たとえ彼女の機嫌が悪くなろうとも、元きた道を戻るよりはマシだから。
 彼女の不機嫌には気づいていないふりで空を見上げれば、「そうやって…」むつりとした小さな声。振り返れば先を行くのをやめて、隣を歩いていた彼女が唇を尖らせている。


「そうやって何でもわかりますって態度、やめなよね」


 納得がいかない、というように目を眇めると、それだけ言って彼女の視線は前を向いた。


「そんなつもりはないんだけど…まあ、はわかりやすいよね」
「…」


 ひどく嫌そうな顔で振り返った彼女に、吹き出して笑う。分かりやすいと言っている傍から、その態度は無いのではないか。嫌だというなら、尚更だ。


「良い性格だよなぁ、忍ちゃんは!」
「だから、ちゃんにも付き合ってられるんだけどね」
「良い性格だよ、本当…」


 互い小さな時と同じ呼び名で呼べば、彼女は苦い表情で笑って溜息を吐く。彼女の不機嫌は、いつだってそう長くは続かない。
 コンクリの上を歩きながら、雲の多い空を見上げる。彼女がかわいそうだと言った月は、雲に見え隠れしているけれど、十分綺麗なのになと思う。


「月自身は、自分のことなんて見えないから…」


 しょうがないのだろうか、と隣の友人を見る。視線を不思議に思ってか、言葉の意味を探ってか、彼女は訝しげに眉をひそめた。少しだけ首を捻った彼女はまあるい月を見上げると、ああ、と零した。


「忍みたいだね」


 くく、と可笑しそうに喉を鳴らす彼女の、人差し指は空へと向かっている。雲のかかる月に、向かっている。
 彼女がそれをどういう意味で言ったのかは知らないけれど、あまり、はいそうですね、と頷ける類のものではない。


「そういうの、男に言うのは違う気がする」
「そ? でもさー、たぶん、わかって無いでしょ、なんでだとか」
「あー…?」


 よくわからない彼女の言に、相槌を返したなら、彼女は最初に鼻歌を歌っていたときと同じように上機嫌な様子で両手を広げた。


「こうやってついて来てんのもー、なんでかなーとか思ってる。そんなの簡単なのにね」


 けらけらと、笑って、彼女は人差し指をこちらに伸ばした。


「女一人夜中に出かけちゃあぶねーですから? やさしー今岡くんは放っておけないのだよ」
「…俺、の保護者になった覚えは無いんだけど」
「ほら、人のことは見てんのに、自分のことは見えてない」


 彼女の言葉は、やっぱり納得のいくものではなかったけれど、せっかく治った機嫌をまた悪くすることもないだろうとよけいな口は噤む。


「月みたいだっていうなら、俺より、のがそうだと思うけど」
「んー? んー…」


 頭を捻って考え込む彼女に、そんなに考え込むようなことだろうかと同じように頭を捻りたくなっていたなら、彼女は、思いついたというように、ポン、と手を打った。


「男から女に言うと口説き文句みたいだし気をつけたほうがいいね」
「女から男に言ってもそうだけどね」


 何を今さらと首を垂れたなら、彼女は衝撃を受けたらしくピタリと立ち止まった。黙り込んでいるのは、たぶん、彼女自身の言葉を思い返しているのだろう。


「く、口説いてないから!」
「わかってるって」


 焦る人に、呆れながら言えば、「そ、そうか、それもそうか…」と彼女はぶつぶつと零しつつ、やっぱり、少し前を歩く。


「てか、どこ向かってんの?」


 その彼女の斜め後ろ姿に声をかけた。  家から川の方角へと歩いていたから、きっと川へ行くのだろうなと思っていたのだが、川へと向かうには一番近いはずの曲がり角は、少し前に通り過ぎてしまった。
 他に行くところがあるならいいけれど、自身の予想道理ならば、次の角で曲がらなくてはよっぽどの遠回りになってしまう。


「…河原」
「じゃあ次曲がるんだね」
「忍ちゃんはさー、昔からすぐそうやってさぁー」
「はいはい、ごめんなさい」


 「悪くないけどさぁ!」と零す人を誘導して角を曲がる。真正面に真ん丸の光が見えて、やっぱり、何処に有ろうと月は綺麗だよね、と心の中で思った。




空に浮かぶ、あの、まあるい光のような、  

2010.09.21