ひんやりした廊下を足早に進む。向かうのは、少し前に教室を出て行った人のところだ。 それは、つい先程のようにも、結構前のことだったようにも感じて、うまくつかめない時間の感覚に、湯舟は自然と送る足を早める。 途中すれ違った友人への挨拶が、立ち止まることなく歩きながらになったのも、今回ばかりは許してほしいところだ。 目的の人が既に校舎を出てしまったのではと思いながらも、何処かに立ち寄っているかもしれないという可能性も捨てきれず、あたりを見渡せる速さで、それでも出来るだけ急いでいたなら、昇降口のところでとうとう、彼女の後ろ姿を見つけた。 まだいてくれたことに、ほっと安堵の息を吐く。といっても、何か絶対に今話さなくてはならないことや、渡さなくてはならないものがあるというわけではない。早歩きで彼女の元までいくのは可笑しいように思えて、少しペースを落とした。 ふと、違和感に気付く。自身に背中を向けたままの彼女は、右手を上げたまま、ほんの少しも動く気配がないのだ。何か見ているのだろうかと、彼女の視線が続いている先、ドアの外を見てみても、動くもの等、寒そうにゆれる木々しか見つけられない。 振り返らぬ人へ、いつ、何と声をかけようかと、そわそわしながら、スノコヘと降りる。悪くなった木の板がカンと音を鳴らして、それを聞いた彼女が、はっと気付いて振り返った。 「湯船くん」 少しだけ目を見開いた彼女が、ポツリと、零すように自身の名前を呼ぶと、その場にじっとしていられないような気持ちになる。 大きなマフラーからのぞく柔らかそうな髪がふわりと揺れた。 「日直終わったの?」 小さく首をかしげた彼女の言うとおり、この日、湯舟は日直に当たっていた。 日直等という面倒なものは、適当にサラっと終わらせてしまいたかったというのが湯舟の本音だったのだけれど、一緒に日直当番になったクラスメートはといえば、間違っても物事を適当に終わらせてしまうような人ではなかった。とてもまじめに仕事をこなすので、彼女にばかり仕事を押し付けるわけにもいかず、必然的に湯舟もその任につく事になる。といっても、彼女が全て先に先にとしてしまうので、あまり湯舟の仕事がなかったのもまた事実で、実質的にはサボっているのとほぼ変わらぬ程度のことしか出来てはいなかった。 「あ、あー、うん、そう…」 目の前の人の質問に、歯切れの悪い返事しか返せなかったのは、その為である。そして、正確に言うなら、日直の仕事、全てが終わっていたわけではなかったからだ。あとほんの少しだけ残っていたのだ、日誌の見直しと、その提出という仕事が。その二つを、同じく当番に当たったにまかせてきていた。 日誌を書くときも、ほとんどの事柄を覚えていなかった湯舟だ。見直し等ということはそもそも出来るわけがない。且つ、彼女は職員室へ行かなければならない用事があった。となると、湯舟の残る意味がなくなり、彼女はそれら二つの仕事を自ら請け負うと、湯舟に先に帰るように促した、という経緯である。疚しい所などは一つも、一ミクロンも無い。が、残りは任せて来た、とは、なかなか言い辛いものがあった。 「ちゃんは、今帰り?」 そそくさと変えた話題に、彼女は小さくため息を吐く。地面へ落とすように小さくこぼした。 「うん、帰らないけんね…」 誰が見てもあまり喜ばしくないという表情で、地面に置かれた靴へと足を通す。 同じように、湯舟も靴を履いた。 「何、帰りたくねーの?」 「うん、帰りたくない…」 自分からした質問だというのに、彼女の返答をなんだか別の意味に捉えかけて、慌てて首を左右に振る。 幸運なことに、地面を見つめる彼女には其の奇妙な動きは気付かれていないようだった。ほっと安堵の息を吐く。それを誤魔化す様に湯舟は言葉を続けた。 「めずらしいね、ちゃんがそういうこと言うの」 「そうかな? でもテスト期間ってどうしても好きになれないんだぁ…」 「え、そーなの? 短縮授業だし早く帰れるし良くねぇ?」 「んー、帰っても勉強しなきゃだめだって思うと、こう、もやもやーっと…」 ああ、なるほど、と納得がいく。彼女は家で、テスト勉強をするのだろう。自身がしないから、いまいちピンとはこなかったが、学校で勉強した挙句、家に帰ってまで教科書やノートを開かなくてはならないと思うと、そりゃあ、帰りたくなくなるというものかもしれない。 「ふーん、じゃあ…」 一緒にどっか寄り道しようか、と掛けたかった言葉は出てこなかった。 決して臆したというわけではない。彼女がテスト期間中に寄り道なんてものをするとは到底思えなかったし、また彼女は、帰らなくてはいけない、と言ったのだから、それを邪魔するというのはあまりほめられる行為では無いからだ。断じて尻込みした訳ではない。 「湯舟くん?」 「あ、いや…あれだよな、テストなんかで人の価値ははかれねーんだし、いっそ無くなればいいのに…」 まさか、考えていたことそのままを口に出すことなんかはできるわけがなくて、苦し紛れに持ち出した話題は、普段友人たちとする馬鹿げた話し。きょとんと目を丸くする彼女に、誤魔化すにしても、もうちょっとマシな話題はあっただろうと後悔にも似た念が押し寄せる。 けれど彼女の瞳は、すぐにやさしい弧を描いた。 「そうだね」 楽しそうに笑う彼女に、ほっと息を吐いて、適当なことを口にした先ほどの自分を褒め称えてやりたい気分になる。ほんの少しでも、彼女の憂鬱が晴れていればいいな、と偶然の彼女の笑顔に幸せな気分になった。 |