「おや、紫陽花ですね」 「ああ、本当だ」 軒下から見る青紫が、雨に打たれて揺れている。まるで時間が止まってしまったかのようだ。そこかしこで跳ねる滴が、静けさを引き立てている。 「紫陽花と言えば」 の声に顔を上げた。しかし彼女はその花を見つめたまま。 唐突に思い出したのは、まだ小さなときの自身と彼女。彼女はやっぱり同じように、あの花を見つめていた。 「あ、紫陽花」 「ん…」 少女が、窓の外に見つけた花の名を呼べば、少年も同じように少女の視線を辿る。 花というものに特別な興味があったわけでは無かったが、それでも、しとしと降る雨の中のソレはまるで一つの画のようだった。 「もう咲いてるんですねぇ、青色ですか」 少女の声が少し嬉しそうなのはそのせいだろうか、と考えながら、少年はぼんやりと言葉を返す。 「本当だ…なんだっけ、アルカリ酸、とか」 「いや、どっちですかそれ。たしか、アルカリ性が青で、酸性が赤、ですね」 少女が苦笑する。少年は彼女の言うそれに、はて、と首を傾げた。 「赤? 赤の紫陽花なんか見たことないけど」 「ああ、赤というか、桃色です」 「あー桃色」 「はい、桃色です、桃色」 雨に打たれて青色の花が小さく揺れている。 教室の中は喧騒で満たされていたけれど、その画だけはとても静かだった。 「そう言えば」 「んー?」 少女の声がして、少年は窓の外に向けていた視線を少女へと向ける。 少女は未だ青い花を見つめながら、口を開いた。 「かたつむりの」 「かたつむり…?」 首を傾げた少年を少女が振り返る。 「はい、かたつむりの歌、あるじゃないですか」 「あー、でーんでんむーしむし」 「そうそれです。それが…なんだっけな…そう、たしか…桃太郎!」 「うん?」 思い出した!、と嬉しそうな少女に、少年は意図がつかめず再度首を傾げた。 そんな少年を見ながら少女は言う。 「桃太郎の歌と一緒に歌えるのだとか」 「あーなんだっけ、三拍子?」 「いえ、それはわからないんですけど、どちらの曲も三拍子ではないのでは?」 「あー? そうだっけ?」 「いえ、正確なことはわからないですけど」 どちらもわからないらしく、二人して首を捻る。しばらく二人で黙り込んでいたなら、少女が、そもそも、と口を開いた。 「そもそも、桃太郎だったかどうかもあやしい気がしてきました」 苦笑する少女に、少年はいい考えがある、と笑った。 「じゃあさ」 「はい」 「歌ってみる?」 「…はい?」 「でんでん虫と桃タロさん」 「あー、いや、と、いうか、教室ですし」 仮にも自習中だ。課題を終えれば各自好きにしていいとはいえ、歌を歌うというのはどうだろうかと少女はあまり乗り気ではない。第一、教室にはたくさんの人がいる。それが少女に二の足を踏ませる理由だった。 それをわかっている少年は、大丈夫、と頷く。 「聞こえないって、これだけ煩いんだし」 「それはそうですけど」 教室を指差し苦笑する少年に、少女も同じように笑った。 二人が交わす小さな声とは比べ物にならない、平素の声より大きいのではないかと思う声が、教室の中には飛び交っていた。鬼の居ぬ間の必然かもしれない。 それに、と少年は笑う。 「二人いなきゃわかんないし」 今がチャーンス、おどけたように少年が言うと、少女が可笑しそうに吹き出した。 くすくすとした忍び笑いは、がやがやと喧しい教室に消えた。 ね?と首を傾げる少年に、少女はこくりと頷く。ニコリと笑んだ少年が指で机をたたいてリズムをとった。 「3、2、1、はい」 少年の声と少女の声が重なる。小さな小さなそれは、二人にしか聞こえない。 歌い終わる前に、少年と少女はどちらからともなく笑いだした。くすくすと笑い声を押し殺す。チラとだけ教室を伺う。同級生の誰も気付いていない。誰も、気にしてなんかいない。 「二人だけですね」 「うん、二人だけだ」 少女が笑う。少年も笑う。くすくすと押し殺した笑い声には教室の誰も気が付かない。 まるで、世界には自身と彼女の二人だけしかないように静かだと、少年は喧騒の中でそう思った。 「西田くん?」 「あ、ごめん、聞いてなかった」 「そのようですね」 ふう、と息を吐いて苦く笑うに、自身も同じような笑い方をしただろうと思う。 自身が過去にとらわれているとは思わない。けれど、ただやさしかった時というのはいつまでたっても綺麗なままで、いや、それ以上にまるで宝石か何かのようにキラキラしだすものだから、つい、思い返せば其のまま永遠の時に浸りそうになってしまう。 「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤、が正解なんです」 「え?」 「小さいころ、そんな話をしたの覚えてませんか? たしか其の時反対に覚えていて、後から気付いたんですよね、それがずっと引っかかっていたんですけど」 機会もなく言い出せないうちに忘れてしまったのだ、と言う彼女は、きっと本当にそれが気にかかっていたのだろう。すみません、と申し訳なさ気に謝った。 そう言えば、そうだっただろうか。そこまで正確に覚えてはいないけれど、確かに自分は酸性なら赤い花、アルカリ性なら青い花だという風に記憶している。 「試験紙と同じだと思ってた」 「はい。私もそうでした」 「じゃ、同じだね」 「…はい。同じですね」 虚を衝かれたかのような顔をした彼女が、少しだけ笑う。 それが、幼い頃のそれと重なって見えて、目を細めた。 濡れた紫陽花が僅かだけ揺れている。 今ならわかる。あの時感じた、あの興味の無い花への感情は、きっと愛おしさというものだった。
静か、な、静か、な、いとしさというしずく
(其の時間はきっと永遠) |