その人は、溢れかえるような人々をものともせず、避けることも、また避けられることもなく、私の目の前に立った。 「キクン、」 脳細胞たちが慌てふためく。随分と古めかしい呼び方をされたものだから、目の前の人が発した声が上手く言葉として脳まで伝わらなかったのだ。彼はアジア系の外人さんであり、その人から海外の言葉で道を聞かれでもしたかと思ったぐらいである。 漸く呼びかけられていたのだと気付いたときには、時既に遅く、返事をするタイミング等と言うものはとうに無くなっていた。しかし、目の前の彼にそのことを気にするような様子は見られない。 「弟子志望かね?」 腕を組んで、悠々と、まさしく威風堂々、いや、彼自身に人を圧するような厳しさがあったわけではなく、多少見慣れぬ格好であることを除けば、彼はただそこに自然に在ったのだけれど、なんとも不思議なことに、回りと逸した空気が彼を包むように漂っているのだ。まるで彼のいるところだけ、別の空間のようだ。 そう、彼が不思議なのではない。彼の回りに漂う空気が不思議だった。 しかしそれよりさらに不思議だったことは、私以外の誰も、彼に注目する人が見当たらなかったことだ。 これほど、異質な空気を放っている人だというのに、それでなくとも、浴衣に高下駄という風変わりな格好の人だというのに、チラリとだけでも彼に視線を向ける人はいなかった。 それとも、彼は私の目にしか映っていないのだろうか。自分は霊感やそれに準ずる人生にスパイスを加える類のものは一切持っていなかったが、もしかしたら何かの拍子に開花したという可能性もある。 それならば、或いは彼の存在感も納得できるかもしれぬ、と考える。 「貴君、」 再度、先程と同じように呼び掛けられ、「はい」こんどはすんなり入って来たその言葉に返事を返した。 「それはどうしたんだい?」 それ、と指差されたのは、運悪く、私の手元に来てしまったチラシたちである。もともとは新入生へと押し付けるように配られる予定であったろう、サークルや部活の勧誘チラシだった。 「間違えられたんです」 「ふむ?」 「私これでも三回なんですけどね…」 入学式である昨日に押し付けられたそれらは、私のやる気を削ぐには十分だった。確かに冗談混じりに頼りないと言われることも何度かあったが、まさか三回生になってまで新入生と間違われることになろうとは。がっくり肩をおとして、処分する気にもなれず、レンタルロッカーにつめこんだのが昨日。といって、まさかそのままにもできまいと、先程取り出してきたものだった。人目があると、ごみ箱につっこむのも気が悪いだろう、わっさりした紙の束を抱えたままに、人の少ない場所にあるごみ箱をさがし徘徊していた。 言えば、目の前の人は楽しそうに笑った。小さな子供のような無垢な笑顔だ。大分年が上の人だろうと思っていたけれど、案外自身とそう変わらないのかもしれない。 そういえば、彼は弟子がどうのと言わなかったか。 手の中に溢れるチラシの1番上、一際目立つ大きな文字のそれは、唯一自分が目を通したものだった。 其処に踊る文字はといえば、『弟子求ム』である。なんの!、と思わずツッコミを入れた。もちろん心の中で。しかし仮に声に出していたとしても誰もあの時の私を責めることはできなかったはずだ。目立つことにおいてはピカイチのそれも、内容に置いてはさっぱりだったのだから。むしろ、誰もが同じ反応を示したに違いない。 疑問を解消する為にチラシを隅々までよく目を通す。読み終わっても、全くわからなかったので、何か見落としたのだろうともう一度よく読んだ。が、それは全くの徒労におわった。むしろ余計に意味がわからなくなっただけだ。しかしたしか、書いてあったのは、そう、たしか、 「樋口、清太郎、さん…?」 その名前だったはずだと、つぶやけば、目の前の人は満足そうに頷く。 ビンゴか…! 「日付は過ぎているが、貴君も弟子にしてあげよう」 全く頼んだ覚えのないそれに、心底驚いた。自分は弟子になりたい等といった類のことは一言も口にしていないはずだ! 苦手なことであったが、この場合は仕方が無いだろう。彼の言葉を否定するために口を開く。 「あの、」 「名前を言ったのは貴君だけだからね」 けれど、小さくしかならなかった声は、嬉しそうに笑った人に糸も簡単に引っ込んだ。 そして、結局何も否定できず、自身の人生、常が如くそうしてきたように、まあ、いいか、と流れるがままに任せた結果、現在に至るわけである。 |